染分皿(因州中井窯)

山陰では吉田璋也が1931年から民藝運動を展開しており、父・宗悦や河井寛次郎らも指導に訪れていました。柳も吉田璋也によってデザイナーとして招聘され、牛ノ戸脇窯(現・因州中井窯)を訪れました。そこで柳はろくろを回す若い職人にひと晩中つききりで、1枚の皿を作り上げました。それが「染分皿」です。

黒釉と緑釉の対照が鮮やかな「染め分け」の技法は、吉田璋也が牛ノ戸窯再興のために考案したものでした。柳はこの技法を生かしながら、縁を幅広に、形状をシャープにすることで、モダンで洋皿としても違和感なく使えるよう改良を加えました。特に縁の部分は、釉薬がかからないよう素焼きのまま残す「緑抜き」という手法を用いています。

ろくろ成形の器は内側の形に合わせて外側を仕上げるのが一般的です。しかし、料理を盛りつける内側のラインは丸く、外側は直線的にというのが、柳の理想とする形状でした。また、ろくろ成形は丸みを出すのに向いており、シャープな線を出すのを苦手としますが、柳は厚ぼったく曖昧な形になるのを嫌ったため、縁の内側と外側のエッジがきりっと立つよう、何度も試作が繰り返されました。

1960-70年代には製品として販売されていましたが、その後販売中止となってしまいます。「染分皿」は技術的に難易度が高く、また、柳の好んだ土が荒っぽいことも影響し、職人の技術を要する大変難しいものでした。

2001年から因州・中井窯でのディレクションシリーズの一部として再び「染分皿」が作られます。その際には作りやすさを考慮し、皿の内側の形に合わせて、外側も丸みを帯びた形に仕上げています。