柳宗理/インダストリアル・デザイナー (1915~2011)
柳宗理は日本を代表するデザイナーです。
柳がデザインを始めた当初、戦後の日本ではデザインという言葉も一般に知られておらず、世の中は経済成長に伴い質の悪いものも多く出回るようになりました。
柳はそのような商業主義に偏ったものや、流行に左右されるものを否定し、製品における機能や素材等の諸要素をふまえた上で、質の高いデザインをすることを理念に活動をしてきました。
柳宗理/インダストリアル・デザイナー (1915~2011)
柳宗理は日本を代表するデザイナーです。
柳がデザインを始めた当初、戦後の日本ではデザインという言葉も一般に知られておらず、世の中は経済成長に伴い質の悪いものも多く出回るようになりました。
柳はそのような商業主義に偏ったものや、流行に左右されるものを否定し、製品における機能や素材等の諸要素をふまえた上で、質の高いデザインをすることを理念に活動をしてきました。
柳宗理(本名:やなぎむねみち/通称:そうり)は1915年6月29日、民藝運動の創始者・柳宗悦と声楽家・柳兼子の第一子として生まれました。詳細をみる
柳宗理(本名:やなぎむねみち/通称:そうり)は1915年6月29日、民藝運動の創始者・柳宗悦と声楽家・柳兼子の第一子として生まれました。
幼い頃から絵を描くことが好きだった柳は瀧口修造の影響を受けて前衛芸術を知り、その新しさに夢中になりました。父のやっている事は古臭いと反発し、芸術の道へ進みます。柳の前衛芸術への興味はデザインを始めてからも冷めることはありませんでした。
*柳宗悦(1889-1961):柳宗理の父。文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。東京帝国大学哲学科卒業。無名の職人による民衆の工芸の美に注目し、新しい美の概念と工芸理論を展開、河井寬次郎や濱田庄司と「民藝」(“民衆的工芸”の略称)の新語を造り、自身の自宅の側に日本民藝館を創設。
*瀧口修造(1903-1979):まだまだ外国から入ってくる情報の乏しかった日本にヨーロッパの新しい芸術・前衛芸術を紹介。戦後は評論家として活動、1951年には総合芸術グループ「実験工房」を結成、様々な分野の芸術家が集まりジャンルを越境した活動を行った。
*前衛芸術:未来派、ダダイズム、シュルレアリスムへと至る運動がその中心。さらにピカソが創始したキュビズムやカンディンスキーらが創始した抽象主義など、世界的に興ったさまざまな運動が含まれる。
前衛芸術に心酔していた柳は東京美術学校(現・東京藝術大学)の西洋画科に入学しましたが、在学中にドイツから帰国したばかりの水谷武彦の講義を聞きバウハウスの思想に感化されます。詳細をみる
前衛芸術に心酔していた柳は東京美術学校(現・東京藝術大学)の西洋画科に入学しましたが、在学中にドイツから帰国したばかりの水谷武彦の講義を聞きバウハウスの思想に感化されます。
”絵描きはアトリエにこもり自分の好きなことをしているけれどもっと社会に出て社会のために尽くさなくては”と、柳の関心はデザイン・建築の分野へ大きく転換します。そこでル・コルビュジェを知った柳はその新しい芸術思想と幅広い活動に強い憧れを抱きました。後にコルビュジェの弟子である坂倉準三の事務所で働き、また第二次世界大戦中には戦地にコルビュジェの著書を持っていくほどに敬仰していました。
*水谷武彦(1898-1969):建築家。教育者。バウハウスに初めて留学した日本人。
*バウハウス:ドイツに設立された、デザインを含む美術・建築に関する総合的な教育を行った学校。わずか14年という短い歴史だったが、その理念は様々な形で受け継がれ、モダンデザインの基礎を築いた。
*ル・コルビュジェ(1887-1965):近代建築の三大巨匠のひとり。機能性を信条としたモダニズム建築を提唱するが、晩年には有機的で自由な造形的な建築物も手掛ける。建築に留まらず、家具デザイナー、著作者として、また、ピュリズムの画家として、幅広い分野で活動。
東京美術学校卒業後、当時日本の中央官庁であった商工省の下部機関・日本輸出工芸連合会でデザイナーとして働き始めます。詳細をみる
東京美術学校卒業後、当時日本の中央官庁であった商工省の下部機関・日本輸出工芸連合会でデザイナーとして働き始めます。
商工省が輸出工芸品の振興と指導のためフランスのデザイナー、シャルロット・ペリアンを招聘した際には、ペリアンの日本視察に同行。その成果を示す「撰択・伝統・創造」展開催にも協力しました。
柳宗悦や河井寬次郎とも交流したペリアンは民藝運動に共鳴し、地方に残る伝統的な意匠や技術を同時代の感覚で再生しようと試みました。デザイナーであるペリアンが民藝に強い関心をもったことは、柳にとって大きな驚きでした。後にペリアンについて ”デザイナーとしても人間としても非常に影響を受けた” と話しています。
*シャルロット・ペリアン(1903-1999):1927年ル・コルビュジエのアトリエへ入所、主にインテリアデザインを担当し、ル・コルビュジエ、ピエール・ジャンヌレと共に数々の名作を生み出した。坂倉準三、前川國男と同時期にアトリエで働いていたこともあり、輸出工芸指導の顧問を勤めた後も、日本のデザイン界と深く関わる。
日本が第二次世界大戦に参戦した頃、柳は坂倉準三建築研究所の所員となります。軍に所属しなければならなくなった柳は、研究所所属のまま陸軍報道部宣伝班員としてフィリピン・バギオへ渡ります。詳細をみる
日本が第二次世界大戦に参戦した頃、柳は坂倉準三建築研究所の所員となります。軍に所属しなければならなくなった柳は、研究所所属のまま陸軍報道部宣伝班員としてフィリピン・バギオへ渡ります。
現地で日本文化会館建設の仕事に携わりました。その後、戦争が激しくなり捕虜となった柳は終戦までフィリピンに留まります。
*坂倉準三(1901-1969):1931年からル・コルビュジェのアトリエへ入所、都市計画や住宅設計に携わる。坂倉と柳は戦後もミラノ・トリエンナーレ、グッドデザイン制度制定など多くの仕事を共にする。
戦後間もなく柳はインダストリアル・デザインの研究を始めます。デザインという言葉がまだ一般に認知されていない時代でした。詳細をみる
戦後間もなく柳はインダストリアル・デザインの研究を始めます。デザインという言葉がまだ一般に認知されていない時代でした。
物資も不足する中、完成したのが無地の「硬質陶器シリーズ」でしたが、模様付きの陶器が一般的だった当時の国内市場では“白い陶器は半製品”と言われ中々理解されませんでした。当時は模様がある陶器が一般的でしたが、実は質の悪さを色や模様で誤魔化したものも多かったのです。
機能や材料、生産過程などの諸要素を踏まえた上で、日常生活に適する美しさを持った質の高い製品をつくることがデザイナーの仕事だと考えた柳は、無地の陶器でその姿勢を表しました。
1950年に「柳インダストリアルデザイン研究所」を開設。その頃からコンペティションで数々の賞を受賞、その賞金を元に1953年「財団法人柳工業デザイン研究会」へと組織を改めました。詳細をみる
1950年に「柳インダストリアルデザイン研究所」を開設。その頃からコンペティションで数々の賞を受賞、その賞金を元に1953年「財団法人柳工業デザイン研究会」へと組織を改めました。
当時の日本製品は品質の悪い模倣品が多く、国外からはデザイン盗用の指摘が多くありました。そのような状況に危機感を覚えた柳は、デザインはどうあるべきなのか社会的な規範となる正しいデザインの実践を目指しました。また、その考えの啓蒙活動とデザイナーの指導育成を図る必要性を主張し、財団法人として認められました。
翌年コルビジェのもとで働いていた建築家・前川國男の誘いを受け、様々な分野のデザイナーが集う「MIDビル」へ移転、それから亡くなるまで同じ場所でデザインを続けました。また、初めての事務所主催の展覧会「第一回柳工業デザイン研究会展」(1956年)ではバタフライスツール等多くの名作が発表されました。
1950年代に入ると日本のデザインや芸術をより良くしようと多くの組織が発足します。柳は国際デザインコミッティーや日本インダストリアルデザイン協会(JIDA)の創設から深く関わりました。詳細をみる
1950年代に入ると日本のデザインや芸術をより良くしようと多くの組織が発足します。柳は国際デザインコミッティーや日本インダストリアルデザイン協会(JIDA)の創設から深く関わりました。
国際デザインコミッティー(現在の日本デザインコミッティー)は建築家、デザイナー、美術家、評論家と様々な分野のメンバーで構成。分野を超えた横の繋がりが強くありました。柳自身も広い分野の人との交流があり、瀧口修造率いる総合芸術グループ・実験工房のメンバーとも親しくしていました。
また、良いデザインを生み出すには製品の販売者、使用者の意識向上も必要だという考えの元、グッドデザインの啓蒙活動にも積極的でした。1955年に松屋銀座の一角にメンバーがセレクトした商品を展示販売する常設の売場「グッドデザインコーナー」が設けられ、1957年には通産省による「グッドデザイン商品選定制度」(現在のグッドデザイン賞)が制定されました。
また、1964年以降「グッドデザインコーナー」の併設ギャラリーでの多彩な企画展を開催、より広くデザインの啓蒙を目指しました。柳もコミッティ在籍中には「デザイナーのタッチしないデザイン」、「鳥の凧」など多くの企画展を担当しました。
技術革新によって目紛しく変化していく社会の中で、国や人種の垣根を越えて多くのデザイナーたちが “デザインのあるべき姿を再認識する必要がある” と声を上げます。詳細をみる
技術革新によって目紛しく変化していく社会の中で、国や人種の垣根を越えて多くのデザイナーたちが “デザインのあるべき姿を再認識する必要がある” と声を上げます。
柳自身も数々のデザイン会議に出席、日本代表メンバーとしてハーバード・バイヤー、ブルーノ・ムナーリなど世界中の著名なデザイナー達とこれからのデザインがどうあるべきか議論しました。
アスペン国際デザイン会議(1956年・アメリカ)への出席が契機となり、1960年には日本での世界デザイン会議開催が実現しました。最前線で活躍するデザイナーを中心に、26カ国から200名以上が集まっての大規模な会議となり、この会議をきっかけに日本でも「デザイン」という言葉が認識されるようになりました。
*ハーバード・バイヤー(1900-1985):バウハウス出身のデザイナー、画家、写真家。バウハウスの教官も務める。
*ブルーノ・ムナーリ(1907-1998):イタリアの芸術家。美術家、デザイナー、教育者、研究家、絵本作家など幅広く活動。
柳は自らデザインするだけでなく、デザインの将来を担う若者たちへの教育にも熱心に取り組みました。詳細をみる
柳は自らデザインするだけでなく、デザインの将来を担う若者たちへの教育にも熱心に取り組みました。
1960年からドイツのカッセル国立デザイン専門学校の講師を勤めるなど、日本に留まらず国外でも教育者として活動しました。国内では1950年前後から文化学院、女子美術大学などで講師を務め、特に金沢美術工芸大学では1956年から晩年まで約50年にわたり教鞭をとりました。
1964年の夏季東京オリンピック、1972年の冬季札幌オリンピックのデザインポリシーに積極的に参加しています。詳細をみる
1964年の夏季東京オリンピック、1972年の冬季札幌オリンピックのデザインポリシーに積極的に参加しています。
東京オリンピックは開催までの準備期間が短い中、デザインを統括していた評論家の勝見勝によってモニュメンタルなものは各方面の指導的立場のデザイナーに依頼されました。柳は聖火ランナーの持つトーチホルダーをはじめ、聖火筒、代々木水泳競技場観客席などのデザインを担当。東京オリンピックは多数のトップデザイナーや建築家が一丸となって尽力した大プロジェクトとなり、統一されたデザインワークは国際的に高く評価されました。
*勝見勝(1909-1983):評論家。デザインのプロデューサーとして戦前から戦後にかけて日本のデザイン界を牽引した。日本のデザイナーの地位向上、日本デザインの国際化に務め、また若い世代の育成にも積極的であった。
1960年代以降、日本で急速に道路建設が進み、美観や使い勝手を無視した歩道橋や防音壁が多く作られました。その状況を嘆いた柳は、早くから公共構造物のデザインの重要性を説いています。詳細をみる
1960年代以降、日本で急速に道路建設が進み、美観や使い勝手を無視した歩道橋や防音壁が多く作られました。その状況を嘆いた柳は、早くから公共構造物のデザインの重要性を説いています。
公共構造物も人が使う道具であるという視点で捉え、美しさと機能性を兼ね備えたものを造ることによって都市空間の質の上昇を目指したのです。自らも、歩道橋や地下鉄設備のデザイン、1980年代には「東名高速道路防音壁」や「関越トンネル坑口」という高速道路の大型公共構造物を実現させました。
父・宗悦に反発し民藝から離れていた柳ですが、1950年代後半から河井寛次郎の窯で黒土瓶を制作、日本民藝協会主催展覧会の作品選定に関わるなど、民藝との関わりが強まっていきます。詳細をみる
父・宗悦に反発し民藝から離れていた柳ですが、1950年代後半から河井寛次郎の窯で黒土瓶を制作、日本民藝協会主催展覧会の作品選定に関わるなど、民藝との関わりが強まっていきます。
柳は生産手段や技術、材料を正しく利用し、庶民が心地よく使える丈夫で健康的なものをつくるということにデザインと民藝の共通項を見出していました。柳が最も強く訴えたのは民藝を過去の美とするのではなく、そこから学び取ったことを現代の創作に生かすということでした。ものが溢れる社会の中で本当にいいものとは何かということを民藝からも見つめ直そうとしていたのです。
1977年、日本民藝館の三代目館長に就任した後には、年に数回ある特別展の企画から展示構成全てを監修。また雑誌『民藝』(日本民藝協会発行)の掲載写真の撮影やグラフィックデザインを担当、時に自ら筆を執って同誌に寄稿し、現代の民藝の発展を願って自身の考えの発表も活発に行いました。
柳は北欧、南アジアを中心に様々な国を訪れ、自身の眼に適ったものを蒐集し、文化・風習を自ら撮影してまわりました。詳細をみる
柳は北欧、南アジアを中心に様々な国を訪れ、自身の眼に適ったものを蒐集し、文化・風習を自ら撮影してまわりました。
日本民藝館館長に就任後には、雑誌「民藝」や特別展の中で世界各国の民藝として紹介しています。柳は原始的な暮らしから生まれるモノの強烈な純粋さ、根源的な美の存在に魅了されていました。柳にとって旅先で原始的な暮らしに触れることは大きな学びでした。
はじめての作品集「デザイン 柳宗理の作品と考え」(1983年・用美社)の創刊にあたり、柳はデザインに対する考え方を “デザイン考” として執筆しました。詳細をみる
はじめての作品集「デザイン 柳宗理の作品と考え」(1983年・用美社)の創刊にあたり、柳はデザインに対する考え方を “デザイン考” として執筆しました。
デザイナーはもちろん全ての人に向けた問いかけであり、また自身へのデザインの戒めでもありました。88歳で刊行した初の著作選集「柳宗理エッセイ」にも転載されています。
“デザイン考” の中で、地球資源の枯渇や浪費型の社会に対し “今やデザインとは何なのかとの根元の問題に還るべき時期に来ている” と警鐘を鳴らしました。
数多くのデザインを手がけてきた柳は回顧展の依頼を受けるようになります。それでも柳は“展覧会は新作発表の場である”という考えを貫き、展覧会の度に新しいデザインに取り組み発表しました。詳細をみる
数多くのデザインを手がけてきた柳は回顧展の依頼を受けるようになります。それでも柳は“展覧会は新作発表の場である”という考えを貫き、展覧会の度に新しいデザインに取り組み発表しました。
1980年にはイタリア・ミラノにて国外で初めての個展「デザイナー・柳宗理・1950-1980年の作品」展を開催。また1998年、東京のセゾン美術館での「柳宗理のデザインー戦後のパイオニア」展は過去最大規模となり、柳宗理の集大成とも言える展覧会となりました。
1990年代以降、柳は多くの人に使い続けられている「ステンレスケトル」や「キッチンツール」などのキッチンウェアを手がけました。詳細をみる
1990年代以降、柳は多くの人に使い続けられている「ステンレスケトル」や「キッチンツール」などのキッチンウェアを手がけました。
使い手の視点に立って手で模型をつくりながら考えていくと同時に、生産を担う技術者の意見にしっかり耳を傾けデザインすることで、使い勝手がよく、飽きの来ないかたちを実現しました。
柳は民藝にゆかりのある山陰の窯元で、いちデザイナーとして職人と共に仕事をし、体験的に思想やものづくりの姿勢を指南しました。詳細をみる
柳は民藝にゆかりのある山陰の窯元で、いちデザイナーとして職人と共に仕事をし、体験的に思想やものづくりの姿勢を指南しました。
山陰では吉田璋也が1931年から民藝運動を展開しており、父・宗悦や河井寛次郎らが指導に訪れていました。1960年代には柳も吉田璋也によってデザイナーとして招聘され、いくつかの試作品がつくられましたが、販売には至りませんでした。それから40年が経ち、職人が代替わりをしたことから若い職人の技術とモノを見る眼の育成を目的に指導を行い始めます。それがきっかけとなり、2001年には因州・中井窯、次いで2004年には出西窯でのディレクションシリーズが生まれます。
✳︎吉田璋也(1898-1972):医師でありながら、山陰で民藝運動を展開。新作民藝を中心に、デザイン、指導、監修、販売と幅広く活動。
✳︎河井寛次郎(1890-1966):陶芸家。作陶だけでなく、木彫、書など多くの仕事を手掛けた。同時に柳宗悦、濱田庄司らと共に、民藝の推進者として多くの工芸家を牽引。
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